年末のご挨拶が間に合いませんで、年始もあっちゅうまに正月終わっちゃいました。
僻地の年賀状レベルの更新場ですが、いちおうご挨拶やっとこう。
今年もどうぞよろしくお願いします。

よい日々をお過ごしくださいませ。
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暮らしていると不安になることはよくあるが、案外とソレはわけもなくってワケじゃない。
大別すると理由は3つ。

① ヒトと会わない
② 懐がお寒い
③ ヒマ

①、②はまあ当然だな。さまざまな努力や方法でそれを埋めることは可能だから、問題になるのは③。
なんで問題かといえば、ヒマはとても大事なことだからさ。

心を亡くすと書いて忙しいと読む、のとおり、忙しいと精神的余裕がなくなる。
そりゃ不安になることなんてないさ。それどころじゃないもの。
でもそうして忙しく暮らすと、いろんなことに鈍感になる。ただでさえ鈍い自分の感覚がそういう理由でさらに鈍くなっていくのはなにより怖い。

だからできるだけ忙しくしないように、ヒマを人生にたっぷり取って生きていこうと心がけているのだが、このヒマには副作用としてもれなく不安がついてくる。
不安を解消しようとあがけばあがくほど無駄に労力を消費し迷路をさまよい歩いた挙句ヒマをつぶそうと何かを自分に無理矢理課そうとし、結果心を亡くすような日々に追われて鈍くなった自分にさえ気づけなくなる。

ヒマが大好きなわたしはセットでついてくる不安と寄り添いながら生きていくしかないから、不安に打ち勝つ何かを持つようにしなければイカン。
ソレが無根拠な明るさ、楽観を伴うものなら鈍くなっているのと一緒だ。それらを伴わない強さを身につけられればいよいよ人生熟練期と言えるのだろうか。リアル熟練者には青二才と笑われそうだが。

不安な日々は決して快いものではないけれど、正体の知れない不安と毎日向き合っていたほうが謙虚に堅実に控えめに生きられる気はする。

疲れる生き方だな。


人と接するとき常に感じていた一定の距離が、だんだん拡がっていく。
心地よくもあり、寂しくもあり。

寂しいと感じられることを認められるようになったのは、オトナになったからか。
寂しいと感じたからといって生き様を変えることをよしとしないのも、またオトナになったがゆえの邪魔なプライドによる弊害か。

物理的にも精神的にもはるか遠くなった他人たちは、いまごろどうしているだろう。
そうして無駄にセンチな気分になるのは、オトナになったんじゃなくて歳を取ったという表現のほうがしっくりくる。

我慢と無理と自己矛盾を繰り返して、なんだかどっかへ向かってる。
多分少しは進んでる。
だから開いた距離は無理に詰めようとしなくていいのだろう。

あせるなと自分に言い聞かせ。

もはや年賀状と同程度の更新状況と化しておりますな。
もう見てる人なんていないだろうけど、そんなことはまったく関係なくこのスペースはカオリさん自身のためだけに来年以降もひっそりと存続予定。

今年も一年いろいろあったなあ。
月日の過ぎるのは早いけど、歳を取っていくことがわたしにとってはマイナスイメージではなく、ヒトとして熟して行くことなんだと日々感じられ、それは案外悪いもんじゃないな、と。
ただゴールへの距離が縮まっていくことに関してだけは、漠然とした恐怖は相変らずあるけれども。

ま、そんなわけで暇と幸せを腕一杯にかかえて今年も暮れて行きます。
来年も精進精進。



…万一見ているヒトがいたら悪いので、アナタのためだけに書いておきましょう↓

体に気をつけてよいお年を!また来年お会いしましょう!

あけおめっつーかなんつーか。すっかりおっぽらかしです。
レスもしないですみません。

だらだらとtwitterはじめましたので、やってるかたはあっちでかまってあげましょう。
kaoreeeで検索してください。
ここは気が向いたときに長いの書きます。すんごい気長にお付き合いくださいませ。


暦は残酷なほどに過ぎていきますな。お久しぶりですカオリです。

なんつって廃墟と化してるこんな僻地を見に来ているけったいな人ももはやいないんじゃないかと思うが。
そんなこと承知の上で来年以降もひっそりこっそり僻地のあばら家は存続していく予定です。

1年に1回くらい立ち寄ってくれたアナタ、「お、まだやってんだ」なんて思ったらメールでもいただけると嬉しす。
たまたま立ち寄っちゃったアナタ、来年の今頃に奇跡的に覚えてたらまた立ち寄ってひと声かけてくれると嬉しす。

今年も1年いろんなことがありました。
いろいろと、すこしは歩を前に進められていると思います。
ひとことでいえば、今年も幸せでした。
来年ももっと幸せでありますように。

電話線の向こうのあなたはいかがでしたか?
今日不運だったアナタも今年イマイチだったアナタも、明日からの毎日が来年からの1年が幸せでいっぱいのすてきな時間に彩られますように。

ひとあしお先に暮れのご挨拶、でした。
I wish a Merry X'mas & a Happy New Year!

よいお年を。
来年もひとつ、またよろしく。

愛をこめて@カオリ

楽シイ。楽シイ。
皆ガ私ヲ見テクレル。皆ガ私ヲ愛シテクレル。

嬉シイ。嬉シイ。
皆ガ私ニ笑イカケテクレル。皆ガ私ニ声カケテクレル。

ダッテ人ダモノ。
一人ジャ生キテイケナインダヨ。
ダッタラ皆ニ愛サレタイヨ。

ダッテ女ダモノ。
与エラレタ性トシテ女ラシクイタイヨ。
皆ニキレイダネッテイワレタイヨ。

ダケドナンダカ苦シイ。苦シイ。
自分ラシク生キルッテナンダロ。
モウ忘レチャッタヨ。

ドウシテナゼカ悲シイ。悲シイ。
人ニ見セテル私ハ誰ダロ。
人ニ誉メラレテ最高ノ笑顔浮カベテルツモリノ、アレハ誰?

よく「真面目ですね」って言われる。
誉めてんだかバカにしてんだか知らないが、その言葉にはほんの少しだけ違和感を覚えるのでたいていこう言い返すようにしている。

「いや別に、真面目なんじゃなくて一生懸命なだけ。」

さらに「なんでそんなに一生懸命なんですか?」と重ねて問われると、さてこれは非常に返答に窮することになる。
何事につけ目の前の一事についてのみ一生懸命になってることを解説するのは簡単だが、すべての思考と行動にはそれぞれ意味があり、それらは非常に密接にリンクしあっている。

つまり、たとえば「なぜ一生懸命仕事をするのか」について答えるとき、わたしは「じゃああなたは人生って何だと思う?」と問い返さねばならぬ羽目になる。これじゃただのイタい子だ。だから返事に困るのだ。

誰もが通るであろう思春期に強引な結論を出すことが出来ぬままわたしはオトナになった今も「人生ってなんだろう」って自問しながら生きている。
生きるって死ぬって、働くって食うって寝るって病むって健康って、家族って友達って娯楽って、愛するって憎むって、喜びって悲しみってなんだろう。

はっきりいってめんどくさい。めんどくさいが思考をやめられない性癖である以上、これらの命題とはどうやら一生付き合っていかねばならん。だったらハナから「答え出ない」って投げないで、真っ向から目一杯組み合ってやろうじゃねえか、というのがわたしのスタンス。

そしてそのおそろしく遠く高いぼんやりした山の頂上におそらくはあるだろう何がしかの「真理」にたとえ半歩でもいいから近づきたい、と思ったら、どんな些事でも手抜きなんかできっこない。
ありふれた仕事のひと手間でも、料理を作って食べるのでも、テレビをただ眺めるのでも、煙草1本吸うのですら、思考さえ伴えばすべてが文字通り頂上への確実な足がかりとなり得る。

だから、わたしは別に真面目ではないが、どんな些細なことにも全身全霊全力投球、常にトップギアで取り組むように心がけている。
力を抜くのも手を抜くのも簡単だけど、それをやるとあとで後悔することが火を見るより明らかだからさ。

とはいえ心がけばかり先行でなかなか一生懸命に生きるのも難しいもの。一生懸命でも思考や結果が伴わねばただの勇み足ともなる。傍から見ればその生き様は滑稽ですらあるだろう。
そんなときにはがむしゃらに熱弁をふるったりすると却ってさらに滑稽に映る。
ただニッコリと笑顔を返すのが賢明だ。

水面下でばしゃばしゃ足掻いてる足は、意外と誰の目にも触れてるのかもしれない。
じゃあいっそ水面上の気取った顔じゃなく、みっともなくバタバタしてる足も含めてこれがわたしだって胸張って言って生きてったほうが、実り多き人生を生きられる気がする。

わたしは残念ながら善人である。
悪人になりたいと思っていたし今も思っているが、こればかりはなろうと思ってなれるものではない。
というより世の中には多分悪人なんていないのだ。孔子だか孟子だか偉い人の言うところの性善説をわたしは信じているといえる。

だが善人であることと性格が良いというのは必ずしも同義ではない。善悪はあくまで根っこ、素材の問題で、性格の良し悪しはあとから付随されるものだ。
つまりわたしは基本善人であるが、性格は悪い。いやむしろ悪く見えるように努力している、というべきか。

まったくの疑念も警戒心もなく天使のような笑顔を浮かべて誰もに接することが出来たらそれは幸せだと思う。赤ん坊がそうだ。だから人は基本善人であるとわたしは感じているのだろう。

しかし人は大人になるにつれそれだけでは生きて行けなくなる。
嘘をつくことを覚え、裏切り裏切られ、張り付いた笑顔を浮かべる技術を身につけ、思ってもいない台詞を吐き出す舌を育てる。

そうこうしていくうちに人と接することが怖くなる。
無頓着でいられればいいのだろうが、どうしたって人と関わらなければならない社会で暮らしていると他人の顔色は気になる。気にせざるをえない。
だから極力必要以上に他人と接することをしなくなる。
発言も石橋を叩くように、それもスパナやトンカチを振り下ろすように無駄に激しくときに凄まじい破壊力を持って行う。そしてひびの入った石橋をほったらかしで知らん顔。渡ることなんて絶対しない。

こういうことを繰り返すと当たり前だが友人は減っていく一方だ。もちろんそれを引き止めたりはしない。人付き合いを怖がっている者にとってはむしろ見限って去っていってくれたほうが都合がいいのだ。
手に入れた孤独、望んでいたはずの孤独。

残ったものは一抹の寂しさと猜疑心。
求めても得られない、得れば放り出したくなる、不安定なココロをもてあまして迷路を彷徨っているようなもんだ。
それもまた生きてる喜びなのかもしれないが、なかなかに難儀である。

当たり前だが「自分に厳しく」することって難しい。

人は歳を重ねていくほど他人から厳しくされることが減っていく。自分よりも歳若い連中を指導叱責する立場になるわけだから当然だ。
そうして人の上に立つようになって、ただむやみに甘言にばかり喜んででれでれとだらしない笑顔をさらしているようなオトナたちも多い。
そうなりたくなければ、どんなに難しくても自分に厳しくいねばならない。

同時に、自分に厳しくいようとすればどうしても他人にも厳しくなってしまう。自覚がなくても目が厳しくなって、能力以上のことを他人に求めてしまう。自分の能力と努力を水準としてしまうから、気がつけば他人とのスペックの差を理解できなくなっていたりする。

それは厳しくいるつもりで余裕がなくなっているだけだ。自分に厳しくすることと余裕がないことは違う。また、余裕を持つことと暇であることも異なるし、余裕と怠惰に至ってはまったく別物だ。

そうしてようやくどうにか自分に厳しく、という意識を持って日々を過ごしたとして、さて「他人に優しく」というのがこれまた難しい。
他人の気持ちや立場を理解して、その他人が喜ぶ言葉を常に選び、かつ誠意を持って良好な人間関係を築けってか。理想の理想だ。
そんなんできたら聖人君子様だ。即身成仏入定だ。人間様には至難の技さね。
そもそも優しくという概念がぼんやりとしか理解できない。

だからこのくらいが丁度いいんだろうと思う、「他人に甘く」。
基準値をぐぐっと下げて、他人に期待しない。他人がどんなに愚図で怠惰でもそれがその人の基本スペックなんだと言い聞かせ、自分にお鉢が回ってきても俺がやらなきゃ誰がやると他人は置物飾り物なんだと考えるようにつとめる。
他人が期待以上の働きをしてくれたときにはめちゃくちゃにおだてあげて誉める。

この場合正直、甘くすることはバカにしてることとほぼ同義だ。だがこのくらいの意識でいないと「自分に厳しく」しながら「他人に厳しくしない」ようにすることは難しい。
それにこういった態度を「バカにされている」と感じられる感覚を持っている人はそもそも甘い態度で接するような必要も余地もない。そう感じられる人間はおそらく自分にも厳しいからな。

あまりに怠惰なてめえの尻を日々ひっぱたきながら、他人にゃ舌先三寸の歯の浮きそうな甘言を吐きまくり、そうしてどうやらわたしは日々息をしている。

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書いてるヒト:カオリ
おおはしゃぎ、でもどっかシビアな御喜落主婦。三十路街道爆走中。
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